九十九島 島名考の10 ヲシキ島 

 九十九島遊覧船パールクイーンが幸運にも松浦島大回りコース(乗船場にある航路図に点線で記載されたコース)をとってくれたなら、松浦島と陸地との海峡に入ってすぐに、丸い島が右側に、細長い島が左側に見えてきます。

 九十九島の案内図では共に無名の島ですが、海釣りのガイドブックによると右側の丸い島は「丸島」、左側の細長い島には「オセキ島」と記載されています。

 江戸時代の絵図(*注)を見ますと、1813年の伊能大図には「丸島」は「ミチキレ」、「オセキ島」は「ヲシキシマ」とあり、1647年の正保絵図(抜写)には「ヲシキ島」、天保国絵図には「をしき嶋」と書き込まれています。オシキ島は小さいながらも古くから存在感のある島だったようです。大きな島は海上から見たときに陸地に紛れてしまうためか江戸時代の絵図では不当なほど軽く扱われており、特徴のある小さな島の方がちゃんと取り上げられたりしています。現在の「オセキ」の表示は何かの間違いで「ヲシキ」が正しいのでしょう。

 明治17年発行の「長崎県北松浦郡村誌(この資料での九十九島の記述はあまり正確ではありませんが)」には「丸島、東西三十六間、南北十五間、周回百三十間」、「オシギ島、東西五十七間、南北八間、周回百四十二間」と書かれており、「ヲシキ島」は細長い島として認識されていたことが判ります。

1647年の正保国絵図(抜写) 

1838年の天保国絵図

1821年の伊能大図

 航空写真

 右側の「ミチキレ」は、潮が満ちたら陸地(この場合は松浦島)から切れて離れてしまうことを意味しており、他にも例がある地名です。同じ九十九島内の元島には、やはり潮の満ち引きと関連がある「干切(ひきれ)」という小字名があり、干潮時に水路が切れてしまうことを意味しています。

 島名について考えるために、「ミチキレ」「トシヤク島」「鞍掛」「割石」などの素朴な島名が掲載された昔の地図を見ていると、他の島名も農作業や漁業などの暮らしに結びついたものが多いのではないかとの思いを抱きます。

 「ヲシキ島」とは何だろうかと電子辞書を引くと、まず「折敷(おしき)」が出てきます。神様や高貴な方に供する四角あるいは八角のお膳です。「ヲシキ島」を真横から眺めるとお膳みたいに思えなくもありませんがやはり無理があります。

 遊覧船からこの島を見た時の私の第一印象は「刃物みたいだ」でした。辞書をもう少し先に進めると「押切り(おしきり)」が出てきます。昔の農具のことであり、藁塚を意味する「トシヤク島」との相性も良い言葉です。

 広辞苑 押切り 2:秣(まぐさ)や苆(すさ)などをきざみ切る用具。飼葉切り。

 「押切り」の画像は残念ながら持っていないのですが、検索エンジンで「農具 押し切り」と検索をかけると多数出てきます。「農具」とするのを忘れるときれいなモデルさんばかり出てきますが・・・(^_^;)。要するに紙の裁断機と同じ外見構造を持つ農具です。刃は細長く少し反っており「ヲシキ島」と良く似ていますので、この刃の形を連想して名付けられたのではないでしょうか。

 「押切り」については別項「ナキリ」で述べているように、近くの小字名「名切」との関連(なきり→なみきり→みよし→みおし)も考えられなくはありませんが、この島の形を見ると刃の形しか思い浮かばなくなってしまいます。

 下の画像は遊覧船パールクイーンで「ミチキレ」と「ヲシキ」の間を通過した後に船尾から撮影したものです。山門の両側に立つ仁王みたいに丸い島と細長い島があり、小さい島なのに意外なほどの存在感があります。

 

 

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