九十九島 島名考の7 ウキセ 

 

 佐世保市立船越小学校から海岸の方へ少し右寄りに下っていくと護岸工事がなされた海岸に出ます。このあたりの字名は、海側の平地を「白地馬(しろじろま)」と言い、山側の斜面を「白馬(しろま)」と言います。伊能忠敬測量日記に「白馬ヶ浦」という地名が俵ヶ浦近辺と船越近辺の2ヶ所に出てきますが、字名から考えてこの「白地馬(しろじろま)」のあたりが船越の「白馬ヶ浦」なのでしょう。

 「白馬ヶ浦」の読みは「白馬(しろま)」から考えて「しろまがうら」だと思われますが、「白馬」は残念ながら海岸に接しておらず、「白馬ヶ浦」は「白馬」ではなく「白地馬」にある地名とするしかありません。「白地馬」と「白馬」は同じ地名を指しているようでもあり、何か違うようでもある、少し違和感が残る表記です。

 「佐世保の地名は語る」を書かれた坂田直士先生は同書の元になった論文の中で「白地馬」について、明暦2年(1656年)の資料に「白土田」という小字が見受けられるので「白い土の間」のことではないかと述べられています。

 私は字図で「白地馬」と隣接している「白馬」と「椎尾(しいお)」という小字から「白馬ヶ浦」との関連を考えたいと思います。

 「白馬」とは、伊能大図に記載された「深代島」との関連から考えて、「代間」=水田耕作地のことだろうと思います。

 そして字図では「白地馬」は「白馬」と「椎尾」という小字で両側をはさまれています。この「椎尾」と「白馬」が組み合わさって「白地馬」になったのではないでしょうか。

椎尾+白馬=しいお+しろま=しいおしろま→しおしろま→しろじろま→白地馬

 つまり「椎尾」の「代間」で、椎尾という字にある田圃ではないかと思います。「白地馬」の海岸沿いには今でも水田があり耕作されています。こう考えると「白地馬」は実は「白馬」そのものですので、伊能忠敬測量日記にある「白馬ヶ浦」、つまり「白馬」にある浦という地名をうまく説明できます。

 さて、この「白地馬」の海岸からは、真西の方向に「御飯島(おっぱんじま)」、「オジカ瀬」、「浮瀬(うきせ)」という外見が似た島々が一直線に並んでいるのを見ることができます。

 「白地馬」海岸から見て真西方向に一列に並んでいますので、毎年「春分」と「秋分」の日にこれらの島々の背後に太陽が沈んで行くのを見ることができます。シャッターチャンスです。

 一番奥に見えている浮瀬はオジカ瀬と変わらないくらいの大きさがあるのですが、南九十九島の島々の中では例外的にひとつだけぽつんと遠く離れており小さく見えます。他の南九十九島の島々は「九十九島湾」の中に密集していますが、この浮瀬は湾の外にあります。

 この島だけぽつんと離れていて、外洋で浮いているように見えるから「浮瀬」と呼ぶのだと言いたくなりますが、私はこの島は本当に浮いて見えるから「浮瀬」なのではないかと考えています。

 下の画像は急に冷え込んだ3月初旬に日野町牽牛崎の海岸から「浮瀬」を600ミリ望遠レンズで撮影したものです。

 「浮瀬」が浮島現象で浮き上がって見えています。これは「下位蜃気楼」と呼ばれる現象で特に珍しいことではありません。急に冷え込んで海水温よりも空気温が低くなればほぼ間違いなく発生する現象です。

 ただし島までの距離が問題になります。ある程度離れた島でないと浮いては見えません。下位蜃気楼は約5km以上離れていれば見えるという説明が多いようです。牽牛崎から「浮瀬」までは約4.5kmあります。

 下の画像は同じ日に同じ牽牛崎から撮影した「帆瀬」「オジカ瀬」と上五島航路のフェリーです。

 「帆瀬」「オジカ瀬」は浮いていないのに、フェリーは浮いて見え、フェリー下部には船体上部の反転像が見えています。さらに遠くの陸地(東彼杵半島)も本当は浮いているのでしょうが、高さがありすぎるため反転像も下に長く伸びており浮いているようには見えません。

 「帆瀬」「オジカ瀬」までの距離は2〜3km、フェリー航路までは約6kmですので、やはり5km前後を境に浮いて見えるかどうかが分かれるようです。

 約5km以上海岸から離れている小さな島、つまり下位蜃気楼で浮いて見えそうな島というのは実は南九十九島の中では「浮瀬」だけです。

 なお南九十九島の範囲外に対象を広げれば、10kmも20kmも離れた島々は、元の形も判らないほどに像が崩れますが、ぽっかりと浮かんで見えます。

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