九十九島 島名考の5 ウケ k石岳展望台からの眺めは、正面に丈ヶ島を中心として島々が密集しており、もっとも多島海「九十九島」らしい構図として人気があります。この島々の背後に夕陽が沈んでいく12月〜1月、特に年末は多くのフォトグラファーが各地から訪れて来て、石岳展望台と船越展望台は大にぎわいです。 上の画像はよく晴れた冬の日に石岳の山頂展望台から撮影しました。うっすらと五島列島も見えています。石岳から見ると「諸島(もろしま)」、「丈ヶ島(じょうがしま)」、「斧落とし(よきおとし)」の3島は島影が重なり合っていて判りにくいのですが、「丈ヶ島」と「斧落とし」の間には狭い瀬戸があり、遊覧船がこの狭い瀬戸を通過するのがクルーズの見せ場のひとつです。 「斧落とし(よきおとし)」という変わった島名には「殿様が釣りのじゃまになる木を切ろうとして斧を落としてしまった」という伝説があります。伊能大図を見ますと確かに「斧落島」という島名がありますが、よく見ると実は位置が違っていて、現在の「諸島」が「斧落島」になっています。 伊能本隊の測量日記には「大斧落島・小斧落島・高岩島・子タキ島」という記述があり「斧落島」は2つの島で構成されているように書かれています。この記述だけからだと、現在の「諸島」が「大斧落島」であり、現在の「丈ヶ島」の南半分が「小斧落島」であったように読めますが、島の形や、海の深さなどを考慮すると、現在の「斧落とし」と「丈ヶ島」の間の瀬戸が斧を落として島々を断ち切ったような姿をしており、その名前にふさわしく思えます。 さて伊能大図をよく見ると「斧落島・高岩島・子タギ島・三島総名・曰ウケ島」という注記がついています。これは現在の「諸島」「丈ヶ島」「ネタギ島」の3島を総称して「ウケ島」と呼ぶという意味でしょう。 現在は「ウケ島」という名前の島はありませんが、1647年の正保国絵図(抜写)にも1699年の元禄国絵図(抜抄)にも「ウケシマ」と「うけ島」の表記がありますので古くからある島名のようです(*注)。 この現在は消えてしまった島名「ウケ島」とはどのような意味でしょうか。伊能大図には「アトウケ島」という島名も記載されています。現在の「横島」です。元禄国絵図(抜抄)にも「あとうけ」の表記がありますのでやはり古い島名です。 上の画像は国土交通省が公開している航空写真です。現在の島名と、伊能大図に記載されている島名を(括弧)内に記入しました。画像の左側が西で外海です。これを見ますと「ウケ島」と「アトウケ島」に共通するのは、外海と内海を隔てる防波堤の役割です。横島(アトウケ島)の右側にパラパラと見える四角いものは養魚場の生け簀です。またネタギ島(子タギ島)や丈ヶ島(高岩島)の右側に細長く見えるのは真珠養殖の筏です。島を防波堤に見立てて設置されていることが判ります。 この事から「ウケ島」は「波を受けている」のではないかと思います。こう考えると少し位置が離れている「ネタギ島」までも「ウケ島」の範囲に入れたことが理解できます。恐らくは伊能隊に説明した地元の人々は、総称して「ウケ島」だと言ったのではなく、これらの3島は「波をウケる島」の役割を果たしていると言ったのではないでしょうか。 さて島名「ウケ島」はなぜ現在は消えてしまったのでしょうか。私は「丈ヶ島」の島名が怪しいと思っています。「丈ヶ島」という島名は江戸時代の資料にはまったく見あたりませんので、明治以降何かの折りに、カタカナの「ウ」が漢字の「丈」に書き誤られて「ウケ」が「丈ヶ」になったのではないかと思えてなりません。 |