九十九島・島名地名考の15 ウチュウズ  

 伊能大図にはじつにたくさんの地名が記入されています。松浦史料博物館所蔵の大図は、平戸松浦家との約束があったからでしょうか、小さな島も複雑な海岸線も丁寧に測量・記入され、測量日記には津々浦々ひとつひとつの名前が記載されています。先を急いだために島は測量せず、海岸線も手抜きの測量であった宮城の松島とは大違いです。九十九島湾岸の大図の測線をたどりながら測量日記と照らし合わせれば、日記の地名のひとつひとつを現在の地図上に確定させていくことができます。

 下図は伊能忠敬本隊が九十九島測量の拠点にした船越村付近の大図と航空写真を重ね合わせたものです。赤色の線は伊能隊の測線でほぼ当時の海岸線だと考えられます。青字の地名は測量日記に現れる地名をあてはめたものです。

 上図では「船越浦」は小さなひとつの浦にすぎませんが、もともとは「船越」の意味と地形から考えてこの図全体の範囲の海が「船越浦」だったはずで、大図にもそう書かれているように見えます。また天保国絵図ではこの図の上半分あたりに船越村と書かれています。伊能忠敬測量日記には相神浦村枝舟越の八郎右衛門宅に宿をとったとあり、大図には山口村船越という大きな地名が見えます。

 牽牛崎の例と同じく、大きな範囲の「船越浦」と、小さな「船越浦」のふたつの地名が併存しているのでしょう。大きな「船越浦」の中の小さな浦々にそれぞれ名前がつき、最も人家が多く村の中心である浦に小さな「船越浦」の名前が残ったものと考えられます。

 船越の字義通りに海が入り込んで陸地が狭まった浦には「堀切浦」といういかにも舟で通れそうな名前がついており、その上の方には「内ウヅノ浦」があります。このあたりは現在の字図では「卯中図(うちゅうず)」と記載されています。昔からある地名のようで「明暦二年(1656年)田方帳抜書」という資料の相神浦大里村船越免に「うちうつ」の記載があり、元禄絵図には「うちうすの浦」とあります。また明治17年(1884年)発行の長崎県北松浦郡村誌には「卯中津新田堤」という記載があります。

 「内ウヅノ浦」のことだと考えられる資料を時代順に並べますと、

 1656年「うちうつ」→1699年「うちうす」→1813年「内ウヅ」→1884年「卯中津」→現在「卯中図」、となります。

 古文書には濁点が無いことを考慮しますと「うちうづ(ず)」が妥当な読み方であり、伊能忠敬測量日記に記載されている「内ウヅノ浦」の字の通りに、「内側がウヅの浦」のことだと考えられます。

 「ウヅ」の意味については、この浦の地形の特徴から「埋(うず)まる」のウズ、あるいは「堆(うずたか)い」のウズの可能性が高いと考えています。

 

 上の地図は現在の様子です。下図は高低差を強調するために標高10m以下の土地を海の色に塗ってみました。伊能忠敬がたどった海岸線に近い図になりました。

 堀切浦で九十九島湾と佐世保湾が繋がることが判ります。小船越のあたりでも、もう少しで海が繋がりそうです。次に標高50m以上の土地に色をつけてみました。

 「内ウヅノ浦」の内側は山に囲まれており、それも等高線が混み合っている急峻な斜面で、外に抜け出るのは難しい地形であることが判ります。つまり内側が急峻なために土砂で埋(うず)まっている浦という意味か、内側が堆(うずたか)くなっている浦という意味の地名で、いずれにしても内側が高くなった地形のことを表現した地名であると考えられます。

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