九十九島 島名考の4 トシヤク島 

 k旧版の佐世保市史(昭和30年刊)には江戸時代の九十九島島名入り佐世保地図が2種類綴じ込まれています。正保四年(1647年)の肥前平戸領絵図(抜写)と、元禄十二年(1699年)の松浦壱岐守領分絵図(抜抄)です(*注)。また1813年測量の伊能大図が松浦史料博物館に所蔵されていいます。

 これらの古地図と現在の地図を見比べると、金重島、鳥の巣島、枕島、鞍掛島はすべての地図に名前が記載されており、古くから変わらぬ島名だと判ります。この4島は比較的小さな島々です。

 遊覧船に乗って海上から眺めますと、元島、牧の島、松浦島などの大きな島々は海岸近くにあることもあって、背景の山々とひとつになってしまい、陸続きのように見えてまったく印象に残りません。古地図では実物より小さくか、あるいはまったく描かれていないこともあります。大きさの割に存在感は薄い島々です。

 金重島、枕島、鞍掛島は九十九島の島々の外縁部に一直線に並んでおり、鞍掛島などは小さいながらも特徴のある形をしていますので平戸藩の船が航行する際に目印になりそうです。絵図でも実物より大きく描かれていますので海に生きる人々にとっての存在感は大きかったのでしょう。俵ヶ浦半島海岸沿いの、国崎、甲崎、向後崎という地名がこれらの島々に続いて大きく目立ちます。やはり航行の際の目印だったのではないでしょうか。甲崎などは松浦郡と彼杵郡の境界でもあります。

 さて現行の九十九島地図には記載されていませんが、「トシヤク島」という島名が江戸時代の3種の地図(*注)には載っています。

 

          1647年の平戸領絵図                 1838年の天保国絵図

     

 上記の江戸時代の2種類の地図は、島の位置関係が不正確ですが、トシヤク島はおおよそ松浦島と俵ヶ浦半島の間にある島ということで良さそうです。

 

            1813年の伊能大図                       現行の地図

     

 伊能大図は位置関係がほぼ正確で「トシヤク島」の位置が良く判ります。現行の地図と比較すると「トシヤク島」は俵ヶ浦半島「下名切」の海岸近くにある無名の小島です。

  「トシヤク島」の名前の由来はいろいろ考えるまでも無く広辞苑を引けばちゃんと載っていたのですが、古語辞典の方を引いてしまって判らず、ある新聞記事で初めて気づきました。秋の田圃でよく見かける藁塚のことを「トシャク」と呼ぶのだそうです。「稲積」と書いて「とうしゃく」ではないかとのことです。

 なるほど確かに「御飯島(おっぱんじま)」などは藁塚そっくりです。「トシヤク島」もこんな恰好をしているに違いありません。さっそく写真を撮らねばと随分歩き回ったのですが、この島は狭い瀬戸の中にあって松浦島と安ヶ島と陸地に3方を囲まれているため山の上から見るのは難しいことが判りました。

 展海峰展望台からはかろうじてトシヤク島の上部が見えるのですが、陸地に近すぎるため高い所から島全体が見える良い場所は見つかりませんでした。

 ならば海岸線からということで亀子島から望遠レンズで撮ってみましたが、背景の松浦島に紛れてしまいよく見えません。花の森公園から干潮時に1時間ほど海岸線を歩けばすぐ近くへ行けそうですが、途中に盛大に崖崩れしているところがあり、どうにも行く気がしません。うっかりしていて潮が満ちると帰れなくなる場所でもあります。

 残る手段は海上から見ることです。遊覧船から見るのが一番手軽に思えますが、以前の海王とは違って現行のパールクィーンは丈ヶ島と松浦島の間を通る短縮ルートを通過することが多く、トシヤク島は遠くにちらっとしか見えません。しかも海岸に近いため背景に埋もれてしまいます。

 それでもやはり船しかない、いつかは近くを通ってくれるさと思いながら、「トシヤク島」を撮るためにだけパールクィーンに乗船すること年に5回、秋になってやっと松浦島大回りコースを通ってくれました。

 これが夢にまでは見なかったけど、念願の「トシヤク島」近影です。下は西有田で見かけた藁塚で、「とっこ積み」と呼ぶのだそうです。そっくり、ではないでしょうか。

 藤田洋三さんという写真家の方が藁塚の撮影・研究をされていて写真集も出されています。色々な形、呼び名があり興味深い対象のようです。

 

 

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