九十九島 島名考の12 シラムマ 

 下の画像は、九十九島を囲む俵ヶ浦半島西部の「白浜海水浴場」で、西に沈み行くオリオン座を真夜中に対角魚眼レンズで撮影したものです。頭の上には満月に近い月があり砂浜を明るく照らし出しています。この写真は天文誌「星ナビ」の前身誌「スカイウォッチャー」のフォトコンテストで入選しました。

 「白浜海水浴場」は、佐世保の子どもならたぶん一度は泳ぎに行ったことがあるはずです。夏でなくても米軍?の外人さん達が遊んでいるのをよく見かけます。

 この白浜海水浴場は佐世保市小字図を見ますと、下俵ヶ浦免の白馬にあります。読みは「はくば」となっており、白浜(しらはま)なのに白馬(はくば)なのかと違和感を覚えてしまいます。近くにある上船越免の「白馬」は「しろま」ですので、もしかしたら近くに同じ漢字の小字があるからという理由で、あえて違う読みにしたのかも知れません。

 下の画像は天保国絵図(*注)です。この絵図は島の位置や大きさはほとんど支離滅裂で今の地図との対比はできませんが、半島とか浦々のおおよその形は合っています。

 赤線を引いていますが、この絵図では現在の白浜のあたりは「志らむまの浦船繋悪」と書かれています。

 江戸時代の九十九島地図(*注)は、上記の天保国絵図以外にも、正保国絵図、元禄国絵図、伊能大図などが松浦史料博物館に残されています。国絵図は、島の位置や大きさはあてにならないものの浦や港の位置はまずまず正確で、さらに港としての評価まで記載されています。

 例をあげますと、「志々浦三百八十間遠浅横三十八丁」、「棒ヶ浦(現在の母ヶ浦)老浦湊悪」、「魚ヶ浦(現在の庵浦)湊悪シ」、「をしの浦(現在の鴛の浦)船繋悪」などとあり、ほとんどの港が悪いとなっています。誉められている港は見あたらず、悪いと書いていなければそこそこの港ということなのでしょう。港の使い勝手の良し悪しは、絵図を利用する人々にとって重大な関心事であったと思われます。

 上図の「志らむまの船繋悪」は、「しらむま」という船を繋ぐには悪い浦があるというように読めます。

 文化十年(1813年)1月4日〜6日の伊能忠敬測量日記には、現在の白浜海水浴場のあたりから、亀の子島あたりまでの海岸沿いの地名が次の順で記載されています。

 「国崎」→「白浜」→「七郎山崎」→「ダンジキケ浦」→「黒小島渡口」→「モツタケ浦」→「樫木谷鼻」→「白馬鼻」→「白馬ヶ浦」→「安塔寺浦」→「土井鼻」→「瀬戸口」→「土井浦小島」→「宮ノ小島」

 地図を見ながら考えると、細長く突き出た七郎山崎の先端を回って半島の付け根に戻ってきており、明らかに同じ場所の西岸が「白浜」で東岸が「白馬ヶ浦」です。現在の字図ではこの「白馬」は「はくば」ですが、「しらむま」との音が通じることを考えるとやはり「しろうま」と読むべきでしょう。またやや強引ですが、北隣の七郎山崎(現在の字図では七郎山)も白浜も「しらむま」と音が似ています。「しらはま」、「しろうま」、「し(ち)ろやま」と語頭に「し(ろ・ら)」の音が続くのは整然としており説得力があるように思えます。

 まとめると「白馬←しろうま←しらむま」「白浜←しらはま←しらむま」、そして「七郎山←しちろうやま←しろやま←しらむま」です。

 「白馬」ですぐに思い出すのは、日本アルプス白馬岳の名前の由来となった有名な雪型「代掻き馬」です。七郎山のある半島は航空写真で見ると大きな足が2本突き出た「代掻き馬」に見えなくもありませんが、飛行機からでないとこういう風には見えず、馬の形が「しらむま」の由来になったと考えるのは少し無理があります。

 「七郎山」は江戸時代まで七郎鼻付近にあった(交通不便なので明治の初めに安東寺に移された)七郎権現から来た地名だと、佐世保市の広報誌に「させぼ歴史散歩」を執筆された筒井隆義さんの著書「改訂増補版させぼ歴史散歩」で詳しく記されています。七郎権現は神宮皇后に従った武将「別七郎氏広(わけのしちろううじひろ)」を神としたもので肥前一円で広く信仰されており、七郎は平戸の亀岡神社に祀られているそうです。

 筒井隆義さんの前任者である本田三郎さんが執筆された旧版の「させぼ歴史散歩」では、ここ七郎鼻にあった祠の祭神は本来「スサノオノ命」であって「七郎」ではなかったと疑問が呈されています。「しちろうやま」と「しらむま」が関係があるという考えにこだわれば、本来はやはり「しろやま」で、七郎伝説と結びついて「しちろやま」に転訛したと考えることもできます。

 話は横道に逸れますが、伊能忠敬測量日記に見える「七郎山崎」の隣の「ダンジキケ浦」は、たぶん「だんちくヶ浦」のことでしょう。北松浦郡村誌には「檀竹島」という島名も北九十九島のあたりに記載されています。

 「だんちく」は「暖竹」、「葮竹」、「俵竹」、あるいは別名で「葦竹(ヨシタケ)」などと表記される、暖地の海岸域に育つイネ科の多年草であり、茎を農漁業の資材として利用できるのだそうです。これで思い出すのは生月に伝わるキリシタン「だんじく様」の殉教伝説です。偶然でしょうが「七郎」と「だんちく」がともに平戸生月と結びつくのは興味深いことです。

 結論ですが「しらむま」はやはり「白馬=代間=稲作」のことだと考えるのが妥当だと思います(島名考の6「シロとクロ」参照)。この航空写真は減反政策が始まって間もない1974年のもので、まだ田圃が上空からよく判別できます(現在は森や竹藪に埋もれてしまいグーグルアースで見ても棚田の跡は判りません)。よく見ると白浜の南部には棚田がたくさんありますし、七郎山の中にも耕作地が見えます。現在白浜海水浴場の駐車場になっているあたりはもともとは広々とした田圃だったのではないでしょうか。

 南九十九島の南外縁部を形成する俵ヶ浦半島の山中や海岸を歩いていると沢山の棚田跡があり驚かされますし、現在もこんなところでよくもまたというような思いがけない場所で稲作が続けられています。収穫した稲は船で運ぶしかないような、道が通じていない海岸沿いの田圃があったりします。先述の航空写真は国土交通省国土計画局が公開している1974年のもので、この頃まではまだほとんどの棚田は生産を続けておりその姿がはっきりと写っています。

 なお白浜南部の棚田はすべて丸出山と呼ばれる山頂に向かって伸びています。航空写真の下の方をよく見ると山頂部はこんもりとした丸い森になっており、ここには明治時代の佐世保要塞丸出山堡塁があります。よく保存された貴重な戦争遺跡です。

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