佐世保要塞・砲台跡
丸出山堡塁・観測所土台部分
丸出山堡塁・観測所頂上部 |
小首堡塁・棲息掩蔽部 |
私が運営委員として所属していた「させぼ塾」という団体で、「佐世保の赤煉瓦」という本を出版する話が出ました。資料は「赤煉瓦探偵団」という地元グループがほぼ調査撮影済みで、私は画像が不足している遺構を撮影することになりました。
撮影しやすい市街地にある赤煉瓦倉庫群ばかりならともかく、山間部で廃墟となっている砲台跡も撮影対象です。しかも締め切りが9月半ばですので主な撮影は8月に済ませる必要があります。仕方なく猛暑の2002年8月1日から山中を歩き始めました。
佐世保がまだ村だった約100年前海軍鎮守府が置かれて人口が増え、村からいっきに市になったという話は佐世保市民ならよく知っています。しかし同じ頃、ロシア海軍から佐世保鎮守府を守るため、帝国陸軍佐世保要塞の砲台が佐世保湾周辺各地に築かれた話はあまり有名ではありません。
対ロシア艦船用の砲台が明治時代に赤煉瓦と石積みで、対アメリカ航空機用の砲台が昭和になってからコンクリートと石積みで築かれました。今回撮影対象としているのは赤煉瓦構築物なので明治時代の砲台がある佐世保市俵ヶ浦半島の「丸出山」「小首」「高後崎」の3ヶ所を撮らねばなりません。
撮影に行くにあたって図書館で資料を探しました。簡単な調査報告等の資料はいくつか見つかったのですが、地名、砲台名等の細部に異同があり混乱しています。また詳しい地図を掲載した資料はありませんでした。
当時の軍の資料は国会図書館で閲覧出来るそうですが文字だけの資料のようです。配置図などは当時の重要機密事項だった筈で残りにくかったのでしょうか。
結局もっとも参考になったのは下記のホームページでした。
日本の要塞 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/6914/
このページは、出版物も含めて、私が知る限り「佐世保要塞」について詳述された唯一のものです。
俵ヶ浦半島南部の小さな山の中にまとまっていますので1日あれば撮影は終わると考えていたのですが、草木の繁茂ぶりがひどくてはかどらず結局のべ4日間歩き回る羽目になりました。
砲台跡は私が想像していた以上に規模が大きく驚きました。「丸出山」には大型の観測所1ヶ所、砲台が2門と4門の2ヶ所と砲台に付随する倉庫群。「小首」には、観測所と思われる遺構が1ヶ所、砲台が4あるいは6門、それに6室ある巨大な倉庫群がありました。「高後崎」は保存状態が悪く詳細不明でした。倉庫群は棲息掩蔽部と書くべきなのでしょうが、棲息掩蔽部という言葉がピンと来ないのであえて倉庫群と呼びます。
一番上の画像は近所の方が手入れされていて特に保存状態が良い「丸出山」の観測所跡です。100年前のものだというのに当時の鉄製の屋根がほぼ完全に残っているのは驚きです。
撮影で歩き回った時に作成した簡単な地図を下に掲載します。前述したように市立図書館等で閲覧できる資料の間には混乱が見られますし、地図も簡単すぎてはじめて来られた方は道に迷うこと必至です。また普通車で遺構まで乗り入れることは難しく、B地点のお宅にお願いして車を置かせていただくのが良いと思います。下図の実線部分は普通車で通行できます。
おおよその遺構の形をヘタな略図で添え書きしています。上の図を航空写真で見るとこうなります。この航空写真は遺構のまわりがまだ耕作されていた1974年のもので、「丸出山」と「小首」の遺構ははっきりと写っています。
下図は丸出山堡塁部分を拡大したものです。
上図Bの砲台はほとんどの資料で見落とされています。ここにお住まいの方の家屋に隣接し過ぎていて判りにくくなっているためで、薮の中に2門の砲座と倉庫があります。
下図は小首堡塁部分を拡大したものです。
Dの遺構は小首での観測所のようなものと思われるのですが、Eからは薮で行きにくくなっており大きく遠回りするしかありません。そのためか私が見た資料では触れてあるものは無く、忘れられた存在になっています。Eは佐世保要塞の中では一番大きい施設のようで、整備をすれば立派な姿をあらわすものと思われます。
ほとんどの資料で丸出山の一部である観測所が俵ヶ浦砲台と誤記されていて、この地区に「俵ヶ浦・丸出山・小首・高後崎」と砲台が4ヶ所あるかのように見えます。実際は「丸出山・小首・高後崎」の3ヶ所で、その内「丸出山」は比較的広い範囲に3つの施設が散らばっているので間違えられてしまったのでしょう。そして間違えた元資料が引用されて広まっているものと思われます。
後日談:2007年2月、家内と愛犬ココアと共に久々に丸出山を訪れましたら、畑仕事をされていた方から「丸出山みやげにどうぞ」と大きなキャベツを頂戴しましたので、その日の夕食は丸出山ロールキャベツになりました。ありがとうございました。
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