小学校四年生の頃、鉱石ラジオに興味を持ちました。福岡天神の岩田屋で組立キットを買ってもらったような気もしますし、子供向け科学雑誌の付録についてきたのかもしれません。文字通りの鉱石ラジオで検波器は黄鉄鉱かなにかに細い針を触れる仕組みです。聞こえるのは自宅のすぐ近くに送信塔がある米軍極東放送のみで、かすかにイヤホンの奥底でにぎやかな音楽が鳴っていました。

 これをきっかけに電波への興味は募り、六年生になるころには半田ゴテを振り回して当時まだまだ多かった真空管式の五球スーパーラジオを分解、同調コイルを巻き直して短波を聞けるように組立直し、外国からの短波国際放送や、この頃急速に普及していたアマチュア無線の交信を聞いていました。

 中学生になるころには自分でも電波を出して交信してみたくなり、中学一年生の春休みにまだ意味のよく判らぬ無線工学と無線法規の問題集を判る部分だけ暗記して、アマチュア無線の免許試験会場である熊本の電波高校へ、母と二人の弟とともに家族旅行を兼ねて列車で出向きました。この数年後には各地での講習会制度が整備され試験もマルバツ式になってアマチュア無線免許取得は易しくなりましたが、私が受験した昭和四十三年頃は記述式解答で、試験地も九州では唯一熊本のみ、春と秋の年二回実施ですが中学生の私が受験可能なのは春休みだけ、と比較的高いハードルではありました。

 幸い暗記していた問題が試験に出て二ヶ月後に合格通知、それから約半年間をかけて真空管式の送信機をアルミケースの穴開けから配線まですべての自作に挑戦。パーツは近所の大型電気店にほぼ揃っていましたが、足りない分を長崎や福岡の専門店まで買い出しに行くこともありました。冬には機器が完成し、自宅の屋根に竹竿と碍子とケーブルのみの簡単なアンテナを張って、ほんの数ワットの送信電力で電波を出し始めましたが、この程度の設備でも電離層の状態が良い時にはアメリカやヨーロッパのアマチュア無線局と交信できたのでさらに夢中になりました。交信の際の会話には無線独特の略号と定型句が用意されていて、英語ができる必要は無かったので今も英会話はできません。

 高校に進学するとすぐに無線部に入部。昼はトイレ横の部室にこもり、夜は自宅の無線機の改造と交信、熱心さが認められ高三になると当然のように部長に就任しました。名称は無線部ですがオーディオアンプやスピーカーにしか興味が無い部員、鉄道模型のジオラマを作る部員、スクラップ屋で米軍の廃棄設備を拾うのが趣味の部員等々守備範囲は広く、先輩の中には毎日部室に来るのにギターを弾くだけで帰る無線に遠い方もおられした。毎日がこんな具合で家での予習復習をしないのはもちろん、塾はもちろん学校の補習にもまったく行かずに趣味に打ち込んでおりました

 運良く現役で大学に進学すると下宿住まいではアンテナが張れないので無線は出来ず、物理学科に入学したというのにすぐに物理の勉強には興味が無くなり、高校の頃から興味を持ちだした日本古代史の本を読みふけってギターを弾く日々となりました。大学祭の時にはクラス有志でフォーク喫茶を出店し、客の前でギターを弾いていたことなどは思い出すだけで冷や汗が出てきます。

 ギターをはじめたのは小学校高学年の頃、1965、6年頃です。その前はウクレレをしばらく弾いていました。なんでウクレレだったかは忘れましたが、たぶん価格の面で親にねだりやすかったのでしょう。興味は、荒木一郎、加山雄三、ベンチャーズやグループサウンズと移り変わって、エレキギターが欲しくなり、ウクレレからいきなりテスコ(たぶん)のエレキギターへとグレードアップしました。ブルーコメッツの三原綱木が先生でした。高校の頃はヤマハのフォークギターFG−280を買ってもらってサイモン&ガーファンクルが先生となりました。

 大学以降はエリック・クラプトンが30年以上わが師であり続けています。当然ストラトキャスターが欲しくなり1974年に新品で購入しました。あまり人気の無い年代のストラトですが、ビンテージストラトの高騰に引き摺られるようにじわじわと相場が上がっていき、中古品ではなく準ビンテージ扱いになってしまったのは驚きです。

 マーチンも欲しくなり1980年頃にD35を手に入れましたが、こちらは今のところ単なる中古あつかい・・・。

 邪馬台国問題を中心とした日本古代史への興味は現在も続いており、家族で遠出をするにしても遊園地ではなく遺跡とか博物館に私が連れて行くので、まだ幼かった子供達からは評判が良くありませんでした

 大学卒業の頃には、遠ざかっていた無線への興味はオーディオへの興味と移り変わり、就職も音響工学の研究をさせてくれるという音響機器メーカーの今は無きアイワに決まりました。放送局用マイクロフォンの音響回路とか、レコードプレーヤーの振動解析などに携わり、毎日微分方程式と取り組みました。それはそれで面白くはあったのですが、趣味を仕事にしてしまうとやはり趣味としての心の中での輝きは失せてしまい、興味は当時黎明期だったパソコンへと移って行きました。

 佐世保に戻ってきたころはパソコン通信の立ち上がり時期であり、コンピュータネットワークによるコミュニティ形成にアマチュア無線と同質のものを感じて、昭和六十一年にニフティのサービスに加入してメールアドレスを取得、以後ずっと同じアドレスで通しています。しかし当時はまだニフティの加入者が全国で数千人の規模、佐世保にはアクセスポイントが無く福岡まで市外電話をかけてネット接続、知り合いでメールアドレスを持っていたのは大学の同級生一人だけと、現実の社会生活との関わりは薄いものでした。現在ではほとんどの用件がメールで処理でき、会社の業務もネット抜きでは考えられず、神田を歩き回って探していた雑誌の創刊号コレクションにネットオークションや古書通販サイトを利用するなど、ネットが生活に深く関わっています。

 さて結婚して子供も生まれ年齢相応に生活環境が変化してくると、従来の趣味からは撤退もしくは一休みとなりました。しかしそれで心の隙が出来たのか、子供の自然観察会とかに同行するうちに、子供ではなく私の方がそれまでほとんど興味が無かった天文・昆虫・野鳥・山歩きとかのネイチャー趣味に取り込まれてしまいました。

 さらに40歳のころアメリカ旅行に持参した一眼レフカメラがボストンで壊れてしまい、旅行後カメラ一式を買い換えたことで写真への興味に火がつきます。初めは子供を撮るだけだったのですがネイチャー趣味には写真撮影がつきもの、写真機材は撮影分野別に増殖していきました。タイミング良く平成八年には百武彗星、平成九年にはヘール・ボップ彗星が訪れ、一昨年はしし座流星群も見事で、機材を充実させる絶好の理由づけとなりました。

 新品を買うだけではなくクラシックカメラのモノとしての存在感に心惹かれて自制心を失、操作が不便でシャッターチャンスを必ず逃がし、「写ルンです」より写りが悪いだけならともかく全く写っていないこともあるカメラを高いお金を出して買うという病気にかかりかけましたが、現在は撮影すべてがデジタルになったこともあり、ほぼ快復しました(ほぼ、ですが)。

 デジタルカメラはあまりにも進歩が早く、高級機をえいやっと買うより、頃合の価格の新製品を乗り継ぐ方が得策と考え、軽量の入門機を使うことが多くなりました。フィルムのころはDPEコストのこともあり一枚一枚慎重に撮っていましたが、デジタルになると機材と同じく撮影スタイルも被写体もなんとなく軽くなりました。

 子供が成長してしまって私につきあってくれなくな、遅まきながら九十九島を中心とした風景撮影に取り組みました。撮影を続けるうちに、今撮っているあの島はなんという名前なのだろうと興味がわき、当初写真自慢(特にコンテスト入選の)をするためだった当ホームページが島名研究ページに変化しつつあります。

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