九十九島 島名考の13 オッパン 

  「御飯島」と書いて「おっぱんじま」と呼びます。この島は遊覧船から近くで見ると、かなりの広さがある浅瀬から先が丸い細棒が鋭く突き上がったような姿をしていて、他の島々とは容易に区別がつく特異な姿をしているのですが、石岳展望台船越展望台からは「オオブカ島」の影になってよく見えず、また展海峰展望台からは遠すぎるので、面白い名前や外見のわりには目立たない島です。

 上の画像は、船越町字白地馬(しろじろま)の海岸から撮影しました。手前が「御飯島」、その左奥が「オジカ瀬」、さらに左奥が「浮瀬」です。下の画像も同じく白地馬の少し異なる場所からの撮影です。背後を行くのは九十九島遊覧船パールクイーンです。

 「御飯島(おっぱんじま)」の島名由来については、そのくらい誰でも知ってるよと言われそうな気がするのですが、しかしまた九十九島関連のパンフレットや書籍で解説されているのを見たこともありませんので、あえて一章を設けることにします。

 「御飯」と書いて「ごはん」ではなく「おっぱん」と読むと、仏壇に供える御飯のことになります。炊きあがった御飯を金色の器に山盛りにし、まずは一番に仏前に供えます。「おっぱん」で通じる地方も多いようですが、「御仏飯(おぶっぱん)」が一般的な言い方でしょう。

 誰が思いついたものなのか、実にこの島の姿に似合った島名です。これほど島の姿にぴったりの島名ならばきっと古くからあるものなのだろうと古地図を調べてみると、意外なことにまったく見あたりません。正保四年(1647年)の平戸領絵図(抜写)にも、元禄十二年(1699年)の松浦壱岐守領分絵図にも、そして島名地名の宝庫のような文化十年(1813年)の伊能大図にも該当しそうな島名はありません(*注)。この「御飯島」の近くにあってやはり姿形からきた島名を持つ「割島」、「うさぎ島」、「ミチキレ島」などが、小島にもかかわらず大きな島を押しのけて古地図に堂々と記載されていることと比べると、何故なのかと納得しがたい思いにかられます。「御飯島」は古い島名なのではなく、明治以降の誰かが名付けたのでしょうか。

 伊能大図には名前が記載されていませんが、伊能忠敬測量日記には文化十年一月八日に、この「御飯島」のことだと思われる「小島」を測ったという以下の記述があります。

  「大フカ島一周二町五十九間一尺八寸、遠測、ツイテ島周二町斗、小島周三十間斗」

 大フカ島は恐れ入ったことに寸の単位まで記録されています。おおよそ320m程です。測量日記にはよく寸の単位が出てきますが、有効桁数の概念が薄かったのか、あるいはせっかく測った数字を丸めてしまうのがもったいなかったのでしょうか。

 「ツイテ島」と「小島」は「遠測」、つまり上陸せずに遠くからおおよその大きさを測っており、「〜ばかり」という意味の「斗」の字が数字の末尾についています。それぞれ周囲220mと60m程になります。島の位置や周囲長の正確さは伊能忠敬の本来の目的である海岸線の地図作製に影響はありませんので割り切って先を急いだのでしょう。大図での記載位置や日記での測量順などから、、「大フカ島」はもちろん現在の「オオブカ」であり、「ツイテ島」は「コブカ」、「小島」は「御飯島」のことではないかと見当がつきます。

 確かめるためにグーグルアースのパス機能を使ってパソコン上で島の周囲長を測り、日記での周囲長の記述と比較してみますと、「オオブカ」は周囲約300mで「大フカ島」の320mと、また「コブカ」は周囲約170mで「ツイテ島」の220mと、そして「御飯島」は周囲約70mほどで「小島」の60mとそれぞれほぼ一致します。

 「御飯島」のことを単に「小島」とはなんともそっけなくてがっかりしてしまいます。なお明治十七年一月発行の長崎縣北松浦郡村誌には、「大深シロ島」、「中深シロ島」、「小深シロ島」の島名が記載されています。大中小となっていますが大きさの説明をよくよく見ると小が中より大きくなっており、大小中の順番で「中深シロ島」が一番小さいとなっています。「中深シロ島」が「御飯島」のことなのでしょう。誰が名付けたかは判りませんが「御飯島(おっぱんじま)」の方が断然良い島名だと思います。

戻る