九十九島・地名考の16 カメノコジマ 

 亀子島は干潮時なら歩いて行 けます。真珠養殖場があったので橋も架けられており、俵ヶ浦小学校の裏手から昔の棚田の脇道を通って簡単にたどり着けます。花の森公園からは下の画像のよ うに島全体の姿を見ることもできます。

 亀子島周辺の海岸は、俵ヶ浦半島の名前の由来と思われる六角形の節理が入った亀甲紋の石で形成されていま すが、亀甲紋の石の海岸は九十九島周辺では珍しくはありませんので、やはり干潮時に陸地と繋がった姿が、亀が首を伸ばしたように見えるからではないかと思 われます。

 亀子島の名前が出てくる一番古い資料は「明暦二年田方帳抜書(1656 年)」です。相神浦大里村船越免に「か めの小嶋」と記されています。この田方帳は平戸松浦藩の耕作地台帳みたいなものですから、耕作に向いていない九十九島の島々は本来記 されないはずなのですが、「かめの小嶋」だけは島に繋がる斜面地の棚田までも含む地名らしく、九十九島の島ではただひとつだけ「田方帳」に記されていま す。現在でも島を望む斜面全体の小字が亀 野小島となっています。

 これだけであれば亀子島については江戸初期から一貫して「かめのこじま」ということで、特に考えなければならないような 不思議は無いのですが、実は亀子島は江戸後期にあたる天 保国絵図では「みやのこ嶋」、伊 能大図では「宮子島」と記載されています。また測量日記では「宮ノ小島」となっており、表記が違いますが「みやのこじま」ではありま す。その後の資料では明治17年の北松浦郡村誌に「亀甲島」が出ており、明治以降はまた「かめのこじま」に戻っているようです。

 つまり江戸初期は「かめのこじま」、 江戸後期に「みやのこじま」、そして明治以降また「かめのこじま」に戻ったことになります。

 この変化についてまず考えられるのは崩し字の読み間違いによる誤りです。伊能忠敬は測量の際には国絵図や地元提出の絵図 を参考にしており、元になった資料に間違いがあれば、つられて間違うかも知れません。しかし「亀」と「宮」の崩し字は見ように よっては似ていますが間違えるほどではないようですし、国絵図がももともと「かな」で書かれていたならば間違いは起こりません。

 それでは読み間違いとか誤写等の誤りではなく、もともと「かめのこじま」と呼ばれていた島が、江戸時代の一時期だけ「み やのこじま」と呼ばれ、そしてまた「かめのこじま」に戻るということが有り得るでしょうか。

 伊能忠敬測量日記を見ていきますと、亀子島からそう遠く無いところに「宮崎」という地名が現れます。それは文化十年1月 9日の項にある「宮崎鯛ノ網代鼻」 で、九十九島湾の奥、現在「西之前」という小字があるあたりです。西隣りにはひとつ置いて「鯛野前」という小字があり、南側の対岸には「網代ノ頭」という 小字がありますので、「鯛ノ網代鼻」という地名は船越浦の網代(網を設置する漁場)の北端と理解できる地名です。ここの海岸には現在も何かの目印のように自然石が積み上げられていま す。

 それでは「鯛ノ網代鼻」の前についている「宮崎」は何を意味するのでしょうか。この近辺の小字名には「宮崎」と関連があ りそうな地名は無いのですが、お宮ならば地図に も記号がある通り「船越神社」 があります。肥前国北松浦郡神社明細帳に よりますと雑社であり由緒は不詳となっていますが、ここの小字名「西之前」は「しゃーのまえ」と読み、実は「社の前」のことであるらしいことなどから、古 くからこの地にあった神社だと思われます。

 この「宮崎」という地名は、昔の国絵図にも小字図にも出て来なくて、伊能忠敬測量日記にだけ出てくる、幾分唐突な印象を 受ける名前なのですが、忠敬は測量途中の神社についてはよく日記に書き残していますので、「宮崎」は地名ではなく、神社のある岬という意味で地名の先頭に 付け加えた言葉ではないかとも考えられます。このことから類推すると「宮ノ小島」はもしかしたら神 社がある小島のことではないかと考えられます。

 亀子島は小さい島の割にはこんもりとしていて高さがあり、廃墟となっている真珠加工場の裏の階段から頂上部へ登ることが できます。

 頂上部にはかなり荒れているものの何かの遺構があり、灌木さえ無ければかなり見晴らしが良さそうです。

 証拠はありませんが、昔は頂上部には祠があり、もしかしたら真珠加工場廃墟が あるあたりには神社の建物があったのではないかと思われてなりません。現在、鹿子前海水浴場にある陸続きの島の祠や、船越展望台下にある前島の頂上部にあ る神社と、見晴らしの良い頂上部という立地がよく似ています。

 江戸時代のある時期に亀子島には神社があり、江戸時代末あるいは明治の始め頃 に何らかの理由で神社がどこかに移転したと考えれば、「かめのこじま」→「みやのこじま」→「かめのこじま」という島名の変化が説明できます。神社の移転 先としては、亀子島の東側、下名切の小高い丘の上にある神 社が伊能忠敬測量日記に記されておらず、江戸後期以降の建立と思われますので第一候補に挙げられそうです。

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