九十九島 島名考の11 マツラ 

  狭義の九十九島(九十九島湾中の、いわゆる南九十九島)の中に比較的大きな島が三つあります。北側から「元の島」、「牧の島」、「松浦島(マツラジマ)」です。この3島は大きさのわりには存在感がいまひとつ希薄です。展望台から眺めれば大きな島だなとなるのですが、遊覧船で海から眺めると大きすぎて陸地同様であり、独立した島に見えません。

 下図は旧版の佐世保市史(昭和30年刊)に掲載された正保四年(1647年)の「肥前国平戸領絵図抜写(以下、正保国絵図(抜写)と表記)」ですが、赤線で囲んだ現在の松浦島と見られる「直野シマ」はともかく、牧の島や元の島は存在すらしていないようです。「大シマ」とあるのがもしかしたら牧の島のことではないかと目をひきますが、これは少し下の方に載せた天保国絵図*注)と照らし合わせてみると「大ふか嶋」、つまり現在の「オオブカ」のことだと思われます。

 上の地図では明らかに海上から見て特徴ある姿をした島々が強調されているように思えます。 

 下の図は現在の元の島、牧の島、松浦島の小字図です。

  

 元の島には「渡瀬」、「干切」、「立岩」、牧の島には「五歳」、「梅ガ瀬戸」、「真ノ浦」と、それぞれ三つの小字があります。ところが松浦島は一番大きいにもかかわらず全島で「松浦ケ島」という、とってつけたようなひとつの字名しか持っていません。これは松浦島が細長く入り組んだ、九十九島中でも特異な形をしており、陸地として利用しにくいからではないかと思われます。九十九島ガイドブックでは「いくつもの深い入り江を持った葉脈状の島」と形容されています。

 元の島は浅瀬に囲まれていて陸地同様に利用できそうですし、牧の島は少し以前の航空写真を見ると明らかに耕作地(棚田?)の痕跡が見てとれます。時折見かける説話の通りに松浦藩の牧場であったかどうかは疑問ですが、農業が行なわれていたのは間違いないようです。

 「松浦島」という名前からはどうしても平戸松浦家とか松浦党を連想してしまいますし、一番大きな島ということもあって九十九島諸島の殿様みたいに思えてしまうのですが、私は九十九島の島名は、農業・漁業・暮らしに密着した由来が相応しいと考えています。

 さて伊能忠敬の大図や測量日誌には松浦島は「シヤウノ島」という名前で出てきます。下の画像は平戸松浦家に伝わる伊能大図の松浦島付近です。

 この「シヤウノ島」という島名は、下の天保国絵図にも「志やうの嶋」と記されており古くからある名前です。

 「シヤウノ島」と「松浦島」は一見関連が無いように見えますが、旧仮名遣いのシヤウは新仮名遣いではショウかソウですので、たぶん「松」の音読みではないでしょうか。ネットを検索すると、江戸時代の木字活版に「松竹梅」を「志やうちくばい」と記したものがあります。つまりシヤウノ島は単に「松の島」というわけですが、九十九島の島々にはたいがい松が生えていますので、松の木は松浦島だけの特徴ではありません。

 ガイドブックに「葉脈状」との形容がありましたが、松浦島は上空から見ると「松葉」に似ていると思います。しかし昔の人が上空から島全体を見られる訳もありませんので、この説明では説得力に欠けます。

 下の画像は石岳展望台から松浦島を見たものです。

 松浦島から2本の串団子みたいな岬が突き出しています。海上から見ても海に突き出した特徴ある姿です。手前の1本の先にあるお団子は満潮時には独立した島となり「ヘタハゲ」という名前があります。奥の方は「沖ハゲ」です。ともに磯釣りに良い場所だとか。私はこれらの2本の串団子が「松葉」に見えて「松の島」となり、「マツラ島」となったのではないかと思っています。

 さて現在見ることができる中で一番古い地図である正保国絵図(抜写)に書かれた「直野シマ」についてですが、位置や大きさから見て「松浦島」のことを表しているものと思われます。しかし「直野シマ」という名前は他の資料には見あたりません。何か間違いがあるのではないかと疑われます。

 正保国絵図(抜写)と天保国絵図は、ちょっと見た目はかなり違う絵図のように見えますが、子細に見ていくと島名の並び方などは共通点が多く、もとになった資料は同じもののようです。正保国絵図(抜写)での「直野シマ」の位置には、天保国絵図でもやはり大きな島が描かれており、こちらは「まのか嶋」と書かれています。

 「まのか嶋」は伊能大図には「マノカ島」として出てきます。松浦島の近くにある小さな島です。上にある伊能大図の右上に書かれていますが、この図でも判るとおり瀬戸の真ん中にあるので「真中島→まなか島→まのか島」ではないかと思います。余談ですが、展海峰展望台近くに「眼畠(まなこばたけ)」という小字があります。俵ヶ浦半島の中央部ですのでこれも「真中畠→まなかはたけ→まなこばたけ→眼畠」ではないかと考えています。

 松浦島周辺にある他の小さな島、トシヤク島とかヲキツ島も元禄絵図ではずいぶんと大きく描かれています。この「まのか嶋」も松浦島があるはずのあたりに大きく書き込まれていたために、松浦島と間違われてしまったのではないでしょうか。

 それでは「まのか嶋」と「直野シマ」はどういう関連があるのでしょうか。「まのか嶋」は天保国絵図では下図の左側のように書かれています。

 「ま」の字を崩すときに漢字の「眞」の草書体(変体仮名)を使うことがあります。上図の「眞」の左の形です。「眞」と「直」は本来の形もよく似ていますが、崩し字の草書体でもよく似ています。「直」の草書体を上図の「直」の左に示しました。

 正保国絵図には「眞のか嶋」と書かれていたと仮定しますと、「か」の字の草書体(変体仮名)は上記のように消え入りそうな小さな字で書かれることが多いので、

 「眞のか嶋」→「眞の嶋」→「直の嶋」→「直野シマ」

 と書き誤られたのではないでしょうか。正保国絵図の原本を見る機会が無く確信はありませんが、佐世保市史に掲載するためにどこかで模写した際の間違いのような気がします。天保国絵図と比較すると、この「まのか嶋」以外にも、「小島」が「山島」、「くろ小島」が「黒シマ」になっていたり、前述の「大ふか嶋」が「大シマ」になっていたりして細部については今ひとつ信用がおけません。

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