九十九島 島名考の8 ケンギュウザキ 

 島名ではなく岬の名前なのですが、かつての九十九島眺望の名所である「牽牛崎(ケンギュウザキ)」について考えて見ました。

 「牽牛崎」という地名はバス停の名前に採用されていますし、明治時代に佐世保要塞牽牛崎堡塁砲台(観測所棲息掩蔽部)があったこと、昭和の終わりころまではミニゴルフ場などのレジャー施設があったことで佐世保市民には良く知られていると思います。

 牽牛崎という地名で普通思い浮かべるのは、この砲台があった大きな半島全体であり、地図にも太い字でそう書かれていますが、よく見ると西側に出っ張っている小さな岬にも「牽牛崎」と小さな字で書いてあります。半島全体を指す広い「牽牛崎」と、ひとつの岬だけを指す狭い「牽牛崎」があるようです。区別するために、広い牽牛崎半島と、狭い牽牛崎岬と仮に呼ぶことにします。

 上記の画像は、牽牛崎岬の先端に広がる岩場から撮影しました。崖の近くへ行くと大きな岩が落ちてきて転がっています。

 全体の様子が判りにくいと思いますのでグーグルアースの画像に撮影方向を矢印で示してみました。この真上からの画像を見ると岬の先端が丸くなっていて展望台のようであることが判ります。

 次は牽牛崎半島全体のグーグルアース画像です。砲台が建設されたことが示すように、牽牛崎半島は高台であり展望が開けています。また干潮時には牽牛崎岬を通り過ぎて「七崎島」の先端まで行くことができます。矢印で指したところには印象的な大岩がそびえていますし、牽牛崎岬と同様に大きな岩も転がっています。

 ここには「牽牛崎半島は平戸藩の牧場であり、牽牛崎岬まで牛を牽いて行って、船に乗せて運んだ。」という地名説話があるのですが、佐世保市のHP:佐世保の歴史には幕末のころの「建行崎」石炭山のことが記載されていますし、伊能忠敬の松浦大図には少し異なる場所に「検校崎」と書き込まれています。牛にこだわる必要は無さそうです。

 地名には「地名説話」がつきものです。「牽牛崎」の地名からは彦星や織姫が登場する説話ができるかも知れないし、「検校崎」の地名からは松浦党の始祖、宇野御厨検校松浦久が登場する説話ができるかも知れません。あるいは検校といえば琵琶法師ですから、この岬の形が琵琶みたいだという説話もできるかも知れません。話として楽しいものができそうではあります。

 しかしながら、「ミチキレ島」とか「トシヤク島」とか、その由来にほぼ異論が出そうも無い島名を見ていると、九十九島の島々には、漁業とか農業とかに関連があり、生活に密着した名前が相応しいように思えます。殿様とか神宮皇后とかの説話を真に受けるわけにも行きません。

 さて、ものは試しで「牽牛崎」や「建行崎」でネット検索しても何も得られなかったのですが、「検校崎」で検索すると「横須賀市浦賀港見魚(検校)崎台場」というのが出てきました。

 台場というからには、牽牛崎半島と同じく、砲台があった見晴らしの良い場所に違いありません。「見魚崎」というのは魚がよく見える岬の高台ということでしょうから、牽牛崎岬と条件は良く似ています。

 現在の牽牛崎岬からの眺めは、すぐ近くに陸上自衛隊の駐屯地があるために狭苦しいものなのですが、この駐屯地がある場所は江戸末期に干拓された新田であり、干拓以前は下図(グーグルアースの画像に伊能図の測線を重ねたもの)のように牽牛崎の周りは広い入り江でした。相浦川から流れ込む豊富な栄養分で豊かな漁場だったのではないでしょうか。

 

  まとめますと、「牽牛崎」とは魚の動きがよく見える高台がある岬という意味であり、

    見魚崎(ケンギョザキ)→検校崎(建行崎)→牽牛崎(ケンギュウザキ)

 と、当て字が変化していったものと思われます。

 なお「見魚崎」という地名はあまり例が無いのですが、「魚見崎」ならば熱海をはじめ全国に数多くありますし、佐世保市内でも天神山や針尾島、さらに今は佐世保市内となった日本本土最西端碑近くにもある地名です。

 

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