伊能忠敬九十九島測量開始の地 兜崎
伊能忠敬測量日記に、文化十年一月四日、彼杵郡佐世保村白方浦と松浦郡相神浦賤津浦の境界にあたる字甲崎から測量を始めたと記されています。
つまり甲崎という場所は彼杵郡と松浦郡の境であり、佐世保と相浦の境でもある訳です。 また伊能小図には「自甲崎至日野浦總曰九十九嶋」という注記があり、甲崎から日野までが九十九島だとしています。これは現在南九十九島と呼んでいる比較的狭い範囲で、甲崎はその南端ということになります。 この「甲崎」の現在の地名は「兜崎」と言い、佐世保市民ならよく知っている白浜海水浴場から1キロほど南下したところにあります。今現在「兜崎」ということは甲崎の甲は「カブト」と読んだのでしょう。後述していますがここには一見カブトのような大岩があって、海上を通る船からも良い目印になりそうなので「カブト崎」だということになるのでしょうが、「甲」は文字通り亀の甲のことで、俵ヶ浦の語源となった六角形の俵石を意味する「コウ」だった可能性も捨て切れません。すぐ南にある高後崎あるいは向後崎の「コウ」とも関連をつけたいからです。 上の画像は白浜と甲崎の中間ほどで撮りました。柱状節理が風化して亀の甲のようです。 さて「高後崎」はともかく、「兜崎」は佐世保市民にとってまるで馴染みの無い地名です。それは現在はここへ至るのに、干潮時に岩だらけの海岸を1キロ程歩くしか陸上交通手段が無く、また海からしか見えない場所だからです。以前は近くまで棚田があり山から来る道もあったようですが、現在はまったく通行不能です。つまり漁業等の海の仕事に携わる方以外にはまったく無縁の場所です。 しかしそれほど市民生活に縁の無い地名でありながら、現行の市販道路地図には堂々と兜崎の地名が大きく記されています。江戸時代の絵図や伊能図に甲崎と大きく記された名残ででもあるのでしょうか。 この兜崎を一度は見てみなければと干潮時を狙って海岸を歩いてみました。途中から丸い石が海岸全体にゴロゴロとしていて歩きにくくなっています。このあたりの小字名が「鈴玉」となっているのが頷けます。 佐世保市小字地図では手前の丸い石だらけの海岸が「字鈴玉」、奥に見える小山が「字甲越」、小山の向こう側が「字甲」です。字図にはありませんが小山の先端が甲崎、つまり兜崎です。 兜崎の下まで行ってみました。上部には大きな岩が露出しておりとても目立ちます。なるほど目印になりそうな眺めではあります。ここが藩の境目と決めたのも良く判ります。見方によってはこの岩がカブトに見えなくもありません。恐らく海上を往来する船からは重要な目印だったのでしょう。 下に転がっている大岩は、上部の岩の下半分だったものと思われます。伊能忠敬の頃には岩はもう落ちていたのだろうかなどと測量隊に思いをはせておりましたら、突然、高後崎から米軍の強襲揚陸艦エセックスが4万トンの巨躯を現し、現実に引き戻されました。
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