伊能大図の九十九島はなぜ不正確なのか
「伊能忠敬研究会」代表理事渡辺一郎さんの著書「伊能忠敬の地図をよむ」(河出書房新社)に次の一節があります。「最終版の大日本沿海輿地全図大図はすべて失われたとして、わずかに残っている大図をあげてみる。最終版大図で来歴が確かなものは、長崎県平戸市の松浦史料博物館所蔵の壱岐、五島、長崎・佐世保および平戸領を描く5舗(松浦大図)にすぎない。」 同書によると、正本の伊能大図は、明治6年の皇居炎上と関東大震災の際にすべて燃えてしまったというのが定説であり、現在残っている副本写本等の中では、平戸藩の特注品とも言える松浦大図がもっとも来歴が確かで完成度も高いとのことです。 この松浦大図の中にもちろん南九十九島がふくまれており、島のひとつひとつに名前が書き込まれているのを見ることができるのは幸せというほかありません。 松浦大図の九十九島部分は佐世保市政九十九周年企画展のパンフレットに使われましたので、現在の地図と比較しながらじっくり見ておりますと、おかしな所がたくさんあるのに気づきました。 下図は、松浦大図とグーグルアースの画像を、伊能忠敬が宿泊した船越のあたり基点にして重ね合わせてみたものです。大図は測線(測量の道筋を示す赤線)を強調しています。
陸地の海岸線はまずまず合致していますが、中央部の島々の位置がおかしいようです。 正確なことで定評のある伊能忠敬の地図を、「おかしい」、「不正確だ」というのは気がひけるのですが、島の位置にも名前にも大きな混乱が見られます。数百m単位の大きな狂いです。該当部分を少し拡大してみました。 この図の下半分は伊能忠敬率いる本隊が、上半分は支隊が担当して測量しています。支隊が担当した上半分は陸地の海岸線も島の位置もおおむね正確なようですが、本隊が担当した下半分の海岸線は俵ヶ浦半島が少し西にずれています。 この程度のずれであれば、この伊能大図には経緯線が引かれていないので確認できないのですが、松浦史料博物館の原図を接写や複写していく過程で歪みが生じている可能性はあり、それで説明できるのかも知れません。しかし図の下半分の本隊が測量した島々は、とてもその程度ではすませられないくらい大きくずれていますし、島名までも混乱しています。 まず松浦島とその周辺の島々の位置が西へ200m程ずれています。長南風島周辺の島々は南西方向に3〜500m程もずれています。 本隊の担当部分と支隊の担当部分が接合する牧の島の南側、深白島のあたりには、本来は何も無いはずの海域に島がいくつか書いてあります。島名も測量日記に記述が無いものが出てきています。長南風島周辺の島々は島名が混乱していて、測量日記の島の周囲長の記述を頼りに比定しなければならないほどです。 測量日記を見ますと海岸から離れた島は「遠測」と書いてあります。上陸せず遠くの海岸から大凡の大きさと位置を測ったものと思われます。この場合、島の周囲の長さにも「〜町〜間斗」と、おおよそを意味する「斗」の字がついています。小さくて陸地から離れた島はあまり重要視していないようです。 また大図をよくよく見ますと「ヲチカ島(現在のオジカ瀬)」などは島の形の平面図ではなく、遠くの山を風景として描いたような横から見た形になっています。測量日記にもまったく記されていませんし、当然「測線」もありません。これは「遠測」すらせずに、現地から提出された絵図等の資料をもとにして、おおよその位置と名前を書き込んだものと思われます。 海岸線の確定が伊能忠敬の本来の目的ですから、海岸から離れた島々にはもともとあまり関心を持っていなかったものと思われます。九十九島のライバル?である、仙台の松島などは先を急ぐということで測量自体が省略されています。 また測線が記入されていて、明らかに上陸して測量したと考えられる長南風島などの位置さえも大きくずれているのは、どこかの海岸を基点にして島の方向を測る際に、目標の島を別の島と見誤まったのではないかと思われてなりません。 そんな単純な間違いを十数年にわたって日本中を測量してきた伊能忠敬がするのだろうかとも思われますが、日本一と言われる島々の密集ぶりや、よく似た島影のせいで、高い展望台から見下ろせば容易に区別がつく見慣れた島々が、伊能隊が歩いた海岸線から見ると判りにくくなり間違えてしまうことを何度も経験しています。 上に掲載した画像は伊能忠敬本隊が歩いた俵ヶ浦半島亀の子島近くの海岸から丈ヶ島方向を見たものです。 似たような島と島が重なり地図と照らし合わせながら眺めてもなかなか判別できません。 また測量日記を見ますと天候にもあまり恵まれていなかったようです。
問題の島々を測量したのは4日から8日にかけてです。本隊に比べてそっけない支隊の記述ですが、九十九島湾の北と南で天候が違う訳もなく、要するに小雪混じりの曇天が続いたのでしょう。測量にはあまり良い条件では無かったはずです。 以上述べてきたことは、伊能図と共に幕府に提出された「大日本沿海実測録」を参照すれば検証できるのかもしれませんが、この実測録での記述法や計算法を読み解くのは難しく面倒そうですし、明治時代に出版されたとはありますが近くの図書館には置いていないようです。それにしても結果の地図だけではなく、素材のデータまで整理して提出していたとは・・・。日記の詳細さも目を見張るものがありますし、伊能忠敬とその弟子達にはほとほと感心してしまいます。 なお松浦大図は船越展望台の看板に掲載されていますので、眺めと比較しながら見ることができます。 |