九十九島 島名考の2 グヮタグヮン 

 

 下の画像は展海峰展望台から撮影しました。

 画面右上にある「グヮタグヮン島」はなかなか妙な印象に残る名前です。ガイドブックには「がたがん」と呼んでくださいとあります。

 画像にも写っている通りに遊覧船がすぐ近くを通ります。下の画像は遊覧船上から撮りました。

 「岩場と奇岩の組み合わさった」とガイドブックに書かれているとおり、名前も形も変わった島です。

 平戸藩に伝わり、現在は松浦史料博物館所蔵の伊能大図(*注)を見ますと、「グヮタグヮン島」がある筈の黒小島の先端には「天目島」があることになっています。ところが現在「テンモク島」と呼ばれる島はまったく別の場所にあります。下の画像が現「テンモク島」です。

 この現テンモク島は、伊能大図では「苞島」と記され、現在の海図でも「ツト島」と表記されています。テンモクと言えばやはり天目茶碗を思い出さずにはいられません。「テンモク島」は角度によっては浅目の茶碗に見えなくもありませんが、茶碗そのものという感じもしません。「ツト島」という名前が現在の海図にもしぶとく残っていることは、現在の「テンモク島」の位置に若干の疑念を抱かせます。

 実は大図ではなく伊能忠敬測量日記の方には「天目島」という島名は見あたらず、その代わりに大図には無い「マテガタ島」が出てきます。「マテガタ島」の位置は日記からは判りませんが、黒小島から遠測(実際には上陸せず離れた位置から測量)したと書かれていますし、「周二町斗(一周220mほど)」という記述は「グヮタグヮン島」に合っています。

 つまり「グヮタグヮン島」は伊能忠敬測量の際は日記に「マテガタ島」と記載されながら、大図作製の際にはなぜか「天目島」と書き込まれたと考えられます。

 1821年の伊能大図からさらに時代を遡った1647年の正保国絵図(抜写)(*注)にもやはり現在「グヮタグヮン島」がある辺りには「マテカタシマ」という島名がありますし、1699年の元禄国絵図(抜抄)でもこの辺りに「まてかた嶋」が描かれています。この江戸期の2枚の絵図での島の位置や大きさはあまり当てにはなりませんが、それでもおおよその位置は見当がつきます。

 「マテカタ」という地名は伊万里湾にあり、マテ貝に関係があるのではないかと言われていますが、九十九島の「マテカタシマ」は、私は「まてばしい」の「マテ」=「ドングリ」の形をした島のことであろうと思います。その形状を身近にあるもの、それも農業とか漁業に関係がある何かに例えたと考えられる島名が多く見受けられるからです。

 「天目」と「マテカタ」という島名から考えると、「グァタグヮン」つまり「ガタガン」は、「マテ(ドングリ)形茶碗」、あるいは「マテ(ドングリ)形」と「茶碗」の事ではないかと思われてなりません。

 まとめると、「マテカタ島(後に天目島)」→「マテカタ天目茶碗島」→「マテカタワン」→「カタワン」→「ガタガン」→「グヮタグヮン」です。

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