九十九島 島名考の6 シロとクロ 九十九島遊覧船パールクイーンは出航後少し経って「梅ヶ瀬戸」という狭い瀬戸を抜けた後、「オオブカ」、「コブカ」、「御飯島(オッパン)」、「割島(ワレシマ)」という小さな島々の間を通り抜けます。小島が点在し、いかにも九十九島という風景です。ここを通過する様子は、「船越展望台」からも「石岳展望台」からもよく見えますし、「展海峰展望台」からも遠くに見えています。下の画像は「石岳展望台」から撮影しました。 九十九島の案内パンフレットには「オオブカ」、「コブカ」、「御飯島」と記載されていますが、現行の地図では、この3島の真ん中あたりに「深白島」と書かれています。当然、「オオブカ」、「コブカ」は、「大深白島」、「小深白島」の略称でしょう 「御飯島(オッパン)」は、たぶんこの島の形状から来たと思われる変わった名前ですが、明治17年発行の「長崎縣北松浦村誌」には「大深シロ島」、「小深シロ島」と並んで「中深シロ島」の島名が見受けられますので、やはり「深白島」は大中小3島がセットになっているものと思われます。 「深白島」の「フカ」と「シロ」は何を意味するのでしょうか。 伊能大図(*注)を見てみますと「深代島」とあります。「白」ではなく「代」です。ただし、このあたりを境に伊能忠敬本隊と支隊がそれぞれ別々に測量して、後で数値を突き合わせたためだと思うのですが、島の位置が不正確で若干心許ありません。 「深白島」の対岸の小字は「白地馬(シロジロマ)」、「白馬(シロマ)」です。坂田直士先生(私が中学生の時の校長先生でした)の著書を見ますと、「白馬」は「代間」のことであり水田耕作地のことだと述べられています。現地の海岸近くには今でも棚田があり、少し上の方には溜池の痕跡もあります。やはり本来は「深代」で、「シロ」は水田耕作地ではないでしょうか。 では「フカ」とは何でしょうか。海図を見ますと「九十九島」が形成された時にできた「溺れ谷」が「深白島」と「割島」の間を通っており水路となっていることが判ります。薄緑色で表してあります。「フカ」は文字通り「深い」水域のことだと思われます。 この「溺れ谷」は九十九島海域が沈降する前の河川の名残で、吉富一(はじめ)先生が著書で詳述されています。吉富先生は私の高校の時の地理の先生です。「定期試験はみんな大丈夫。高々とした下駄をはかせてあげるから赤点なんか心配しないで」と独特の口調で語られておられたのは忘れられません。何度も救われました(--;)。 「フカシロ」が深い田圃であるならば何故九十九島の島名として使われているのでしょうか。水田耕作に関して「代(シロ)」と対になって使われる言葉に「畔(クロ)」があります。ネット上で大辞林を引きますと「畔(クロ)」は「1.田と田の間の土の仕切り。あぜ。2.平地のうちの少し小高い場所。(名義抄)」とありますので、「類聚名義抄」に「高い場所」という意味で載っているのでしょう。 これで思い出すのは「黒子島」です。満潮時には3つの小島なのが、干潮時には一続きの九十九島でも有数の大きな島になります。近隣の「鞍掛島」周辺も浅瀬になっており、このあたりは干潮時には小舟でも通るのが難しそうです。「黒子島」のクロはこの海底地形が小高くて浅瀬になっていることを意味しているのではないでしょうか。 国土地理院が公開している航空写真を見ても、浅瀬のところは白っぽく写っており、「深白島」周辺は水深が深く、「黒子島」周辺は浅いことが判ります。 「深白島」の「シロ=代」と、黒子島の「クロ=畔」は水田耕作に関する言葉に言寄せて、水深の深浅を表しているのだと思います。これは船舶の航行安全にもつながったはずで、島名で浅瀬に乗り上げやすい海域を示して注意を呼びかけているのではないでしょうか。そう考えると少し突飛ではありますが、「鞍掛島」の「クラ」も、「枕島」の「クラ」も、「畔=クロ」に関連があるのでは無いかと思えてきます。 |