下記の1〜4は、九十九島の島名が記載された江戸時代の古地図です。

 1、正保四年(1647年)の「肥前国平戸領絵図」

 2、元禄十二年(1699年)幕府へ提出の「松浦壱岐守領分絵図」

 3、文化十年(1813年)測量の「伊能図」

 4、天保九年(1838年)銘目録「肥前国」

 

 上記以外にも「慶長年中肥前国絵図」という幕府へ提出された絵図がありますが、残念ながら九十九島は記載されていません。また地図ではありませんが明暦二年田方帳という資料に「かめのこ島」が見受けられます。

 「1」,「2」は旧版の佐世保市史(昭和30年刊)に、読みやすいように書き換えた写しが綴じ込まれていますが、崩し字の読み間違いが多く見受けられ、資料としては不安があります。

 「1」については今のところ前記の佐世保市史以外の刊行物に見あたらないので、当HPでは同市史にある写しを正保国絵図(抜写)と表記して、不安はあるものの資料として一部使っています。

 「2」は神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ住田文庫で公開されています。

 「4」は国立公文書館デジタルギャラリーで公開されています。

 「2」と「4」は、彩色や模様は異なるものの地形地名などの基本的な情報はおおよそ一致しており、元になった資料は同じものだと思われます。

 また「1」も地名や島の位置は「2」「4」と共通するところが多く、「1」「2」「4」は元になった資料は同じもののようです。つまり江戸幕府に何回か提出された肥前国絵図は、実はその都度作製したわけではなく、もとからある何かの資料を再利用して作製したものと思われます。

 当HPでは「4」の国立公文書館デジタルギャラリー画像を天保国絵図と表記して資料として多く採用しています。年代で言えば伊能図よりも後ですが、正保国絵図や元禄国絵図とほぼ同じ内容であり、江戸時代初期の九十九島の情報を伝えているものと思われます。

 「3」は平戸松浦家特注の大図が松浦史料博物館に所蔵されており、佐世保市政九十九周年パンフレットに大きく掲載されました。最終図はすべて焼失してしまっている伊能大図の副本に相当する、来歴の確かな完成度の高い伊能図です。九十九島を望む船越展望台には十分に島名が読める看板が設置されています。

 以上をまとめますと、当HPでは下記のように表記しています。

 1、1647年 正保四年平戸領絵図(抜写):佐世保市史(昭和30年刊)掲載 → 正保国絵図(抜写)

 2、1699年 元禄十二年松浦壱岐守領分絵図:住田文庫 → 元禄国絵図

 3、1813年 文化十年伊能忠敬測量の松浦大図:市政九十九周年パンフレット掲載 → 伊能大図

 4、1838年 天保九年銘目録「肥前国」:国立公文書館 → 天保国絵図 

 

 先述のように「1」「2」「4」は同一資料をもとにしていると考えられますので、実質は「1」「2」「4」と「3」の2系統の地図があることになります。

 佐世保市史(旧版)に折り込まれた元禄国絵図(抜抄)は、先に述べたように草書体(変体仮名)を現代の「かな」に書きあらためる際に生じた間違いがいくつか見受けられます。市史の図は学習用や郷土の資料に転載されることも多いので、念のために九十九島についての誤記例をあげておきます。*は書き写しの際に、読めずに形だけを真似て写されたために判読出来なくなっている字です。

現在の名前 ○天保国絵図 ×元禄国絵図(抜抄)
金重島 かなしけ かうしけ
オジカ瀬 おぢか嶋 *ぢの嶋
長南風島 ながはえ まがしん
鼠島 もとくり嶋 もとくろ嶋
オオブカ 大ふか嶋 太なか嶋
黒小島 くろ小島 くら小嶋
グヮタグヮン島(?) まてかた嶋 まてかき嶋
(現在は陸化) おきつ嶋 *ら嶋
(現在は無名) まのか嶋 まのく嶋

  「ながはえ」の草書体「まがしん」に読み誤られているのがちょっとどうかなとは思いますが、ほとんどは部分的な間違いです。いずれにせよ詳細な部分まで読める古地図が容易に閲覧出来る刊行物に掲載されているのは有り難いことです。今のところ伊能大図は船越展望台の看板で見るほかないのですから。市政100周年を記念して発刊された新しい佐世保市史には、これらの江戸時代の古地図が収録されなかったのは残念です。